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戦後からつづく80年の物語。「アンティーク山本商店」で出合えるレトロな和家具のこと。

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井ノ頭通り沿いに、まるで時が止まったかのようなオーラを放つ一軒の店がある。「アンティーク山本商店」。
軒先に並べられた日本の古い家具たちが道行く人々の足を止め、店内の奥へといざなう不思議な力がある。
ここは単なる古道具店ではない。創業以来三代にわたり家具と真摯に向き合い、新たな命を吹き込んできた歴史を持つ老舗だ。
この記事ではその成り立ちから商品が店頭に並ぶまでの工程、そして店に込められた想いとこだわりを余すところなく紹介する。

戦後の焼け野原に灯った一筋の光

「うちの創業はですね、昭和20年になります。終戦の年ですね」と明弘さんは静かに語り始めた。
店の歴史は初代・山本仁作さんが警視庁の特別高等警察(特高)から古物商へと、時代の大きなうねりのなかで劇的な転身を遂げたことから始まる。
終戦後、GHQによる公職追放。しかし、元来古いものが好きで、書道や創作にも長けていた仁作さんは、その審美眼と手先の器用さを活かし、古物の道へ進むことを決意。
昭和20年12月、まだ焼け跡の面影が残る世田谷の地に「山本商店」の暖簾を掲げた。
「最初は、本当に何もないところから、和服、着物、そういった布ものから商売を始めたと聞いています。
当時は物資が本当にない時代でしたから、店先に何かを置いておけば、日用品などは何でも売れたと。今でいうリサイクルショップのような形でした」
やがて、日用品の売買に加え、祖父は古物の道具市場(競り市)も手がけるようになる。
元警察官という経歴から、盗品流通防止など警察との連携も密に行い、北沢警察の古物商防犯協力会の会長も長年務めたという。
まさに、地域の安全と古物業界の健全な発展に尽力した創業期だった。

二代目が切り拓いた専門店の道

山本商店が現在の「和家具専門店」としての礎を築いたのは、山本さんの父である二代目の時代だ。

「父の代になってから初めて、和家具に特化したお店になったんです。
それまでは何でも扱っていましたが、父が周りを見渡し、誰も本格的に手をつけていないが良い物、安く出せるものは何かと考え、日本の古い家具に目を付けたわけです」
昭和30年代頃までの日本の家具は、職人の手仕事による真面目な作りのものが多く、その価値と将来性を見抜いた二代目の先見の明だった。
こうして、「仕入れたものを店先で直し、販売し、配達する」という、現在の山本商店のビジネスモデルの原型が形作られていった。
山本さんの祖父の手先の器用さは、まさに伝説的だ。
「母方の祖父から聞いた話ですが、観音様の像の指が折れてしまったのを、土を練って形を作り、焼いて、上薬を塗って、全く分からないように直してしまった、というくらいです」。
そのDNAは、山本商店の「修復」という強みへと脈々と受け継がれていく。

三代目の決意と情熱

山本さん自身がこの道に入ったのは、大学3年生の時。就職を目前に控えたある日、父が腎臓病で倒れたことが大きな転機となった。
「兄は別所帯で畑違いの仕事をしており、車の免許を持っていたのは私だけ。祖父に頼まれ、手伝い始めたのがきっかけです。
祖父を乗せて買取に行ったり市場に行ったりするうちに、この商売が面白いと思うようになりました。
お客さんから仕入れて店で売るもの、市場で売るものに仕分けし、店では祖父が直し小売する。
これは面白い、やってみたいと思い、就職を断って店に入ったんです」

23歳で家業に入った山本さんは、まさに新卒でこの世界に飛び込んだ。
「最初は祖父、祖母、父、私の4人。店を大きくしたい、土地を広げてビルを建てたいと最初から思っていました」。
その情熱は、店の前の道路拡張による敷地縮小というピンチを、周辺の土地を少しずつ買い増しするというチャンスに変え、現在の店舗の礎を築く原動力となった。
舞台となったのが、山本さんが生まれ育った代々木上原、そして隣接する北沢エリアだ。
「私が子供の頃のこの辺りは、もっとのんびりしていました。
小田急線に踏切があって、近くの山手通りもまだ上下2車線の狭い道でね。
祖父が店を始めた昭和20年頃は、本当に何もない、いわば東京の田舎だったと聞いています。
関東大震災の時には、東京が焼け野原になり、ここから日本橋の駅舎が見えた、なんていう話も祖父から聞かされましたから、いかに高い建物が少なかったかが分かります」。
店舗の建て替えは、まさにこの街の大きな変化と共に行われた。
山手通りが拡張され、代々木上原が都内でも屈指の人気エリアへと変貌を遂げていく中で、山本商店も新たな姿へと生まれ変わる必要があった。
しかし、それは単に新しいビルを建てるということではなかった。
「この店を建て替える時も、昔ながらの店の良さをどう残すか、設計士と随分話し合いました。店の外観もそうです。
夜になると温かい電球色の光で店内を照らし、軒先の裸電球や、シャッターボックスに掲げられた祖父直筆の文字を復元した看板は、昔の山本商店の面影を今に伝えています。
それは、この場所で三代にわたり商売を続けてきたという歴史と誇り、そして訪れる人々への変わらぬ歓迎のしるしでもあるんです」。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。店舗建て替えのまさにその矢先に父が脳内出血で倒れ、新しい店の完成を待たずして逝去。
その深い悲しみを乗り越え、ようやく新店舗の完成を見届けた祖父も、その40日後に後を追うように亡くなった。
「祖父は、車椅子でしたけど、新しい店の姿を見て『よくやってくれたな』と、そう言ってくれました。それが、私にとっては最後の言葉になりましたね…」。
祖父や父から受け継いだ大切な店を、そしてその想いを、この代々木上原の地で守り発展させるため、山本さんはまず自らの「技術」を徹底的に磨いた。
「人を教える立場になるには、まず自分が誰よりもできなければならない。
手に職がついていなければ、お客様にも、一緒に働く仲間にも、何も伝えられないですから」。
最初の2年半は、文字通り寝る間も惜しんで、来る日も来る日も家具の修復に没頭したという。
その確固たる技術と情熱があったからこそ、今の山本商店がある。
そして、その技術と情熱を共有するかけがえのない仲間として、現在店長を務める大石さんとの出会いがある。
「学生アルバイトだけではなかなか安定しなくてね。
きちんと社員として、本腰を入れて一緒に頑張ってくれる人をお願いしようと頼んだ、その一期生が大石君です。
彼とはもう、かれこれ30年の付き合いになりますね」。

時を超えた逸品たち

山本商店の主役は、なんといっても日本の古い家具、いわゆる「和家具」だ。
江戸時代から明治、大正、そして戦後間もない昭和30年代頃までに作られたものが中心となる。
「この年代までの家具は、直しながら使い続けることを前提に作られています。
それ以降になると、壊れたら捨てて新しいものに買い換える文化になり、そもそも直しながら使う前提で作られていないんです」と山本さんは語る。
この「直せること」が、仕入れの大きな基準の一つだ。
和家具専門店と謳いつつも、そのセレクションは日本製の家具だけにとどまらない。
「和家具の雰囲気を壊さず、お互いを引き立ててくれるような家具類でしたら、洋家具も取り扱いますし、東南アジア圏、李朝、中国家具も選択肢に入ります」。
あくまで中心は和家具だが、それらと調和し、より豊かな空間を作り出すための提案も忘れない。

また、日本の古家具の多くには、現代の家具のような「ブランド名」は存在しない。
「日本の職人は自分のサインを入れたりせず、裏方に徹します。
当時の時間の流れはゆっくりで、一つの家具に込める思いが強く、作品を世に送り出すようなイメージで作っていました」。名もなき職人たちの魂が込められた家具。
そこにこそ、山本商店が見出す価値がある。
そして、箪笥一つとっても、仙台、二本松、佐渡など、地域ごとに素材や形、金具に特色がある。
「パッと見れば年代、材料、地域がある程度分かります」という山本さんの目利きは、長年の経験と深い知識の賜物だ。

命を再び宿す技

山本商店の店頭に並ぶ家具たちは、一体どのような工程を経て私たちの目に触れるのだろうか。
その始まりは「仕入れ」だ。「仕入れは水物」と山本さんが言うように、電話一本で駆けつけて、お宝の山に出会うこともあれば、空振りで帰る日もあるという。
しかし、どんなに大量の仕入れがあっても受け入れられる店舗のキャパシティが、適正価格での販売を可能にする一つの要因だ。
そして、仕入れられた家具は、そのまま店頭に並ぶことはまずない。「100%手を入れます」という言葉通り、ここからが山本商店の真骨頂だ。

「家具の直しは、その家具の構造が分かっていないとできません。
稼働部分にどう力が入り、なぜ壊れたのか、今後壊れないようにするにはどうすればいいか。
構造が分かれば答えが出てきます」。
引き出しや扉は「指一本で開け閉めできる」状態まで徹底的に調整される。
表面の仕上げにも、山本商店ならではの哲学がある。
「祖父から『ツヤを出しすぎるな』『色を塗りすぎるな』とよく言われていました。
古いものの良さを残しながら後世に受け継いでいく。ですから、うちの仕上げはそんなにツヤがなく、多少擦れたところやタバコの焦げ跡、湯飲みの跡などはそのまま残すこともあります。
その家具が経てきた『時代』を残した仕上げ方にこだわっています」。
この修復作業の一部は、店の軒先、道行く人々からも見える場所で行われる。
「仕入れた家具を職人が手入れし、販売するまでを全てパッケージとしてお客様に見せることがお店のスタイルであり、お客様の安心感にも繋がると思っています」。
これは、祖父の代から続く山本商店の伝統であり、透明性への自信の表れでもある。

なぜ人々はここに集うのか

アンティーク山本商店の魅力は、質の高い商品や確かな技術だけではない。
まず、その圧倒的な商品点数と、ジャンルや価格帯の幅広さ。
店内は、机エリア、箪笥エリアといった区分けをあえてせず、「どこに何があるのかわからないような感覚で、お客様に宝探し的な感覚で自分だけの一点物を見つけてもらいたい」という思いから、天井までびっしりと家具が並ぶ。
この「いい意味でのごちゃごちゃ感」が、訪れる者をワクワクさせる。

そして、創業者の代から受け継がれる「薄利多売」の精神。
「少しの薄い利益で多くのものを売って利益を得ようという感覚。
一人のお客様に高い値段で売るのではなく、安くても良いもの、本物を分かっていただいて、それが数回転していけばお店としてはきちんと収益が出る」。
この誠実な姿勢が、顧客との信頼関係を築いてきた。
さらに特筆すべきは、アフターケアへの強いこだわりだ。
「アンティークは売りっきりじゃない。長く使えるものですので、長く使っていただきたい。だからアフターの面も、うちでお買い上げいただいたものに関しては責任を持って対応します」。
この安心感が、一度購入した客をリピーターへ、そして次の世代へと繋いでいく。
メディアへの露出やネット販売も、山本商店の魅力を広める一翼を担っているが、山本さんはあくまで「ご来店いただいて、商品をご覧になっていただいて、アンティークの迫力を肌で感じていただきたい」と、実店舗での体験を重視する。

三代目の想い

「アンティークや和家具に対して、すごく敷居が高いと思われている方が多い中で、意外とそうでもないんだよ、と伝えられれば。
実は数千円、数百円からでも始められるんですよ」

「2500円の小さい引き出しを一つ置いたら、他の家具がおもちゃみたいに見えて、ちょっとずつ買い替えて、気が付いたら家中アンティークだらけになっていた、というお客様を随分見てきました。
そういった方は、たとえ家具が壊れても直しながら使い続けるというサイクルを知ってらっしゃるので、すごく気持ちを豊かに生活なさっているんですよね」。
心の充足をもたらす和家具の力を、山本さんは誰よりも知っている。
創業から80年。その歴史を背負い、亡き祖父と父の「妥協は禁物」という教えを胸に、山本さんは今日も店に立つ。
「あと20年やると創業100年。そこまでは頑張りたい。100年やったら、祖父と父も『よくやった』と肩を叩いてくれるんじゃないかな」。
奇しくも、山本商店の在り方は昨今のスタンダードであるSDGs(持続可能な開発目標)の精神そのものだ。
「もしかしたら廃棄されるかもしれない家具を職人が直し、仕上げて、次のお客様へ繋ぎ、それがまた代々使われていくわけですから」。

代々木上原という街で、時代を超えて愛される古家具と、それに関わる人々の想いを繋ぎ続けるアンティーク山本商店。
そこには、ただ古いものが並んでいるのではない。一つ一つの家具が持つ物語と、それを未来へ届けようとする人々の温かい心が息づいている。
ぜひ一度、その扉を開けてみてはいかがだろうか。きっと、あなたの心を満たす何かに出会えるはずだ。

アンティーク山本商店
【住所】東京都世田谷区北沢5-6-3
【営業時間】11:00~19:00
【WEB】HP / Instagram / X
【定休日】月曜 ※祝日の場合は営業して翌火曜
【TEL】03-3468-0853

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